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昭和29年卒3組

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昭和46年卒1組

昭和49年卒1組

昭和49年卒2組

昭和51年卒1組


松原先生より('14/9/26)

青葉会のみなさまお元気ですか。

9月26日金青葉会役員が集まって、懇親会を開きました。
新橋と言えば、学校に近いですよね。
全国の卒業生の皆さん、近況などのご連絡をお待ちしています。




昭和29年卒業3組

青葉会ホームページの開設に深く感謝申し上げます

こんにちは 北住 敏麿@三田高校定時制昭和29年の卒業生です. 本日2006.11.1.帰宅しましたら,私の書斎のデスクにワイフがおいてくれました郵 便物の中に三田高校青葉会からの封書があり,封を開いてみましたら「ともがき 30号」で,(中略)早速ホームページにアクセスし てみました.  ホームページを拝見しておりますと在学当時のことがいろいろと巡って参ります.
私は,三田高校定時制には途中からの編入のため3年余の在籍でしたが,共学となって第1回の男子卒業生です. 物理と数学は宮川 亮一先生のご担当で授業を受けました.高校卒業後は大学工学部(1部)へ進み,卒業後に大学は変わりましたが電気工学科の研究室に入って研究と教育に携わって参りま した.1960年代に入った頃から熱中し始めましたのが計算機で,当時は計数型電子計算機(Digital Computer)と相似型電子計算機 (Analog Computer) で,両機種のハードウエアとソフトウエアの試作と検討そして適用法に終始しておりました. Digital Computer のソフトウエア関連では機械語からアセンブリ言語によるシステムプログラムやアプリケーションプログラムの 開発を,Analog Computer では主に物理系で高階非線形微分方程式や制御系・伝達関数の解析などに活用する傍ら両Computerのハード ウエアの試作と試用にも従事しておりました.その後両Computer の特色を生かそうと全く機能の異なる機種を結合したHybrid Compute rに取り掛かったのでした.両Computerの連動を行うためのリンケージ部の制御機構やAD/DA変換等をはじめ同期演算のための ハードウエア,そしてソフトウエアではシステムプログラムの開発まで行う羽目となってしまいました.試行錯誤の連続でしたが Hybrid Computerとして機能し,その適用例などは論文にまとめて発表することもできました.その後,Analog Computerは過去の ものとなって姿は消してしまい今の学生たちには通じない世界です.
 1983年に勤務先の大学を変わりましたが,コンピュータも汎用大型機が全盛で利用に関する情報基礎教育もTSSからネットワーク 活用へと進んで行く頃でした.教育への適用も一層盛んとはなりましたが,当時はコンピュータ教育の入り口としてプログラミング 言語の習得教育が広く行われておりました.プログラミング言語として,技術計算にはFortran,事務処理にはCOBOLが一般的で私も学 生たちにこれらの言語教育に携わって参りました.そして今の世代に入ってからネットワーク,オープンシステム,ダウンサイジング, マルチメディア,ユビキタスに適合する教育と実践に漬かりこんでしまいました.今のパソコンの機能の素晴らしさには驚くばかり です.ハードウエアはかっての汎用大型機もたじろぐことでしょう.一方,OSをはじめライフサイクルの短さには追従するのに 四苦八苦というところです.
私は,2004年に教授を定年退職しました.その後も縁があってのことでしょうか非常勤講師を2006年3月まで続けましたが期限満了 となり73歳で退任しましたが,約半世紀にわたってコンピュータと親しくして来たのでした. 定年退職後の現在もインターネットは不可欠な存在で,特にメールには終日追い回されている状況が続いております.
 非常勤講師を退任して自分が自由に使える時間が増えることを期待していたのですが,市民を対象としたIT活用の支援や教育への ボランティアなどもあり手帳の予定欄は詰まっております.それでもかねてからの懸案でありました映像や講義の録音・録画記録を DVDやCDに集約して自分のライブラリィに収めることを楽しみに日課として行っております. 取り留めのないことを列記してしまいました.「ともがき」を見ながら母校と先生方を懐かしく想いつつ何か嬉しい気分となってキーボードを叩いてしまいました.


昭和35年卒業3組

青葉会ホームページを読んで

昭和35年卒業、林(旧姓 岩田)です。3組担任は松尾正恒先生でした。 こう書いても本当に3組だったか?余り自信が有りませんが名簿によるとそうです。 ホームページのお便りの中に数学、物理の宮川先生のお名前を見て懐かしく思い出しました。何度もメールを書きかけては送信する勇気が出ず に止めてしまっていましたが、来年3月定時制が閉校とのこと。残念さもあり、今送らなければと言う気になりました。 今は突発性難聴で耳が不自由になりましたが、なんとか趣味に打ち込める程度の幸せな生活をしています。 私達の学年は同期会を1,2度やりましたが、その後は集まっていないのでは無いかと思います。 私が学生時代、お友達を作らなかったようで何も思い出せないのです。そして現在お付き合いのある方も居ません。 今思うと本当に勿体く、情けないことです。でも60歳の時の同期会でお会いした方々はすぐ学生時代に戻りました。 閉校式には是非伺って、皆様にもお会いしたいものです。 同窓会の事務局、全日制の同窓会と同居は無理なのでしょうか?なんとかしたいですね。 先生がこのホームページの管理をしてくださっているとの事。有難うございます。取り留めなく色々書きましたが今後とも宜しく お願いいたします。

昭和42年卒業

同期生忘年会の一コマ(三組 渡辺さんより)

2006年10月28日八重洲大飯店にて昭和42年3月卒業生の同期会が開催されました。最初のころは、5年ごとに開催野予定が 3年ごとになり、2年ごとになり第10回目の開催となりました。
そのうち毎年の開催になるのではないかと見通しております。現に私の中学のOB会、大学のゼミのOB会は毎年開催となり、 出席できる 機会を増しております。
さて、三田高校同期会は、福島、茨城、栃木、埼玉、千葉、神奈川等から参加することと女性が多いこと等を考慮して、午後1時 〜4時を一次会、時間の許す方は、さらに三次回6時〜9時、だんだん人数は少なくなりますが、楽しい時間を共有できました。 会に参加できた喜びを胸に散会でした。団塊の世代なので、話題はもっぱら、健康や年金、退職金老後の生活プラン等々でした。
 流山市の東葛病院で闘病生活をされておられる石関力太郎先生を二度程お見舞いした報告もしました。先生は90才(本人談) とご高齢ですが、教え子や先生方のことを良く憶えておられ、在学当時の思い出話などを楽しくしました。
 同期生の中では、昭和15年生まれの私、渡辺が最年長で、現役で入学した仲間とは8才の開きがありました。 通学は、営業の仕事のためスーツ姿で、学生服の現役生とは年の差を感じておりましが、今ではまったく感じなくなりました。 須磨先生も私より2才くらい年上だと思います。先生も生徒も区別がつきにく状態です。

昭和43年卒業(1組)

三田高は風化せず

伝統ある三田高校定時制の灯が消える、とかつての同級生から聞きました。昭和43年組の中山です。 3月8日は、海外に行っていて残念ながら出席できませんが、寂しさと、母校への感謝の気持ちから、また再出発した自分自身への区切りとして、このメールを投稿いたします。 東京タワーのライトを横目に、三田警察署から高校へのゆるやかな坂を、仕事帰りに通った黒ボタンの詰襟とセーラー服。 それは・・・遠く故郷を後に上京してきた青年の、自立と、東京で将来を掴もうとするけなげな姿にだぶります。 就職列車で到着したてのほっぺを真っ赤にした少年と少女が、つまずき、転びながらも、ひたすら前へ前へとがむしゃらに生きていた時代。 貧しいが、不思議と元気な、青春そのものでした。月明かりに照らされた小さな校庭も、汗を流した木造の体育館も、詩を語ったおセンチ山も、、、 みんな過ぎし日のこととするには、今なお鮮烈にあの日々の映像が蘇ります。いつの間に覚えたのか、「差別」や「人権」について真剣に議論してくる生徒もいれば、 逆に、「昨夜はやばかった」と、いっぱしの兄貴分ぶって肩をいからせる大将もいました。給食時間にタバコをくゆらせる豪傑もいれば、学校帰りに先生と連れだって 赤ちょうちんの暖簾をくぐった夜もあったような気がします。 映画「3丁目の夕日」に描かれた世界は、そのまま高度経済成長を支えた、私たちの思春期に重なります。 あれから半世紀。三田の夜の学び舎から巣立っていった私たち団塊の世代は、その後も、昭和元禄、オイルショック、バブル景気、長期不況、と時代の波に 翻ろうされながら2008年を迎えています。 鏡の前の自分の姿は、眼じわも白髪も増え、身体もかつての体力を失い、年齢相応になってきた感じです。 私はいま東京郊外の大学で、かつての自分たちと同じほどの若者相手に、教壇に立ちジャーナリズムの講義をしています。 いまの青年たちを見ていて思うのは、私たちの時代とはあまりに違うことです。モノがあふれ、何でも手に入る「豊かさ」だけを言っているのではありません。 これが同じ、私たち日本人なのか。私たち親の世代は、結局、自分たち自身が生きることに一生懸命で、精一杯で、きちんと自分の子供世代を育ててこなかった のではないか、と感じることが多いからです。 パソコンでも、携帯でも、カード1枚で何でも買えてしまう。無尽蔵に「怪しげな大人の情報」をやりとりするインターネットが当たり前の生活環境。 将来のジャーナリストを志す若ものに、生きていくためには「我慢」しなければならないことや「譲る」ことが必要な場合もあること、人を「思いやる」こと、 他人の「痛みを知る」ことなど、どういう言葉で語ればいいのか途方に暮れることがあります。 「3丁目の夕日」を見せて若者が一生懸命に生きていたあの時代のこと、豊かさの陰には公害や、格差というたくさんの代償を伴ってきてること、 かつての集団就職組が最近はアジアや中南米からの出稼ぎ組に変わってきてることなど、時代の動きには必ず「光と影」の両方があることを 知ってほしいと呼びかけますが・・・。 定時制の役割もかつてとは違ってきて、社会の変化に合わせて、3部制や専門制など多様化と「統廃合」が同時に進行しているようです。 一昨年まで勤めていた放送局で、都庁番組を担当していたときに、教育部門の長から教育改革の熱弁を聞かされたが、釈然としないものを感じました。 「新価値」とか「経済効率」「リベンジ」という言葉が流行り、古いものは「無駄」として、一掃してしまおうという空気が庁内を包んでいたのを覚えています。 三田高校は、私の中では、今も歴然と輝いています。古く、風化してしまってはいません。 あの頃の自分に帰りたいとは少しも思いませんが、あの貧しさや心の豊かさがばねになって、いまの自分を作り上げてくれたと信じているのです。 風化しない体験。いや、風化さない体験を、いまの若者に伝えたい、と私は今日もまた教壇に立ちます。三田高定時制の卒業生であったことを誇りに。

昭和46年卒業2組

46年卒同期会

同期会の写真、送ります。2005年10月に麻布十番で開催しました。栗原

昭和46年卒業1組

民謡民舞九州大会で優勝

森英也さんの近況を、同窓生でもあるお兄様の直弘さんからお知らせいただきました。直弘さん(昭和43年卒)と英也さんは、 現在奄美にお住まいです。英也さんは今年4月 全九州民謡民舞の祭典に出場されの中年部でみごと優勝されました。全国大会は平成19年10月18日(木)〜21日(日)に両国国技館で 行われます。下は直弘さんのホームページからいただきました。奄美の海です。

昭和49年卒業1組

ハマダさんからの近況)

Mon, 22 Jan 2007 ご無沙汰しております。ハマダです。 今晩は!
二、三日前に三田校のホームページを拝見致しました。 先生がご担当なされていらっしゃるそうでご苦労がうかがえます。 本日は終日、ソフトウェアーラジオを調整致しておりましたが満足のいく 結果までには至りませんでした。 残念です! また、香港の友人たちに年賀状を書きました。 中国は旧正月は2月7日からですから・・・まだ、間に合うでしょう。 いろんな事をやって来ましたし今後もやりたいと思っております。 また、E-Mailさせて頂きます。

昭和49年卒業2組

同期会の報告

49年卒の小林です。 同期会を3月8日の閉課程式典の後行いました。 2組担任の川上先生も参加され、大勢ではありませんでしたが、それなりに盛り上がりました。遅くなりましたが写真を送ります。  

昭和51年卒業1組

30年目の同窓会

2006年12月23日北は秋田、西は京都から13人が集まりました。一瞬、うーんと沈黙がはしり「!、おっH君!」という場面 もありました。30年の月日がすぐに氷解して、三田高校時代の話、各自の人生紹介に花が咲きました。

宮古島に旅行しました

2004年秋の同窓会で、何十年ぶりかで再会した仲間4人が、翌年3月に、沖縄県宮古島に旅行しました。 一人は担任です。今年の12月にクラス会を開く予定です。具体的な日程が決まったらまた、伝言板でお知らせします。 連絡ができない人が多くいます。このホームページのメールに連絡してください。


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宮古島を臨む ガマより空を臨む グラスボートより 野生のテッポウユリ